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ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ@東京オペラシティコンサートホール

2007年6月20日(水)19:00
ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ
東京オペラシティコンサートホール

マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン ソナタ作品134(ヴァイオリン、打楽器、弦楽オーケストラ版=日本初演)
カンチェリ:リトル ダネリアーダ(日本初演)
ピアソラ:ブエノスアイレスの四季


前の日遅く、今朝も早くで、前半非常に眠かった。しんどかったが、いい演奏会だった。また後で加筆。
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●マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
ヴィオラが短い序奏をとても美しい音色で弾き上げると、幅広の主題がトゥッティで始まる。何と心地よい響きだろう。得もいわれぬ幸福感でいっぱいになり、間もなく意識が飛びはじめた。要するに居眠りだ。しかし、それもそれで音楽の大事な効用。第9番のアダージョに長大さで並び(25分前後)、はぐらかしと分裂症加減で勝る。マーラーのアダージョの中で一番のお気に入りになった。9月にこの人たちの演奏が録音で出るとのことだから、そちらでまた楽しむことにしよう。


●ショスタコーヴィチ:ヴァイオリンソナタ作品134
続いてショスタコーヴィチ。ショスタコーヴィチは、未完成だったマーラー10番全楽章の補筆を依頼されたことがあるそうだし、自身の交響曲の中にもマーラーの影響が顕著。プログラムの流れに説得力があった。

この曲は非常に抽象的で晦渋だが、何度も聴くうちにだんだん気持ちよくなってくる。ある解説で、クレーメル版のオーケストレーション(弦楽と打楽器用)はショスタコーヴィチ自身の書法とかけ離れているという指摘を読んだが、第2楽章スケルツォでの大迫力の合奏を生で聴いたら、このようにアレンジしたかった理由がわかった。ポップミュージックであればリミックスでドンカマを厚塗りしてリズムを強調するようなことを、譜面に書いて折り目正しくやったということなのではないだろうか。とても現代的な試みだと思う。木琴とドラ、ピツィカート、弓で指板を叩く奏法(何と言うの?)が音響的にも視覚的にも効果的。ショスタコーヴィチの第4番第2楽章のコーダにも、DJがネタにしてもよさそうなとてもモダンな打楽器アンサンブルがある。

この曲でのクレーメルのヴァイオリンは、CDで聴くような鬼気迫る硬く冷ややかな感じがなく、意外に角が丸く温かだった。ホールのせいだろうか。ホールと言えば、ステージ上部の天井がピラミッド型になっている。合奏の音塊がその頂点に向かって上昇していくのが見えたような気がした。音楽には関係ないが、第2チェロのお姉さんが(遠目に)美しかったなあ。女性が両脚広げてチェロを弾く姿というのは、考えてみれば相当にエロチックだ。


●カンチェリ:リトル・ダネリアーダ
休憩後の1曲目。カンチェリはグルジア生まれの現代の作曲家で、この曲は「祖国グルジアの映画監督ギオルギー・ダネリアへのオマージュとして、クレーメルのために作曲された作品」(公演パンフレット)。日本初演。これは大きなめっけものだった。短い曲だが小さなテーマやエピソードやたくさん盛り込まれている。悲しげなヴァイオリンの単旋律があったかと思えば、民族音楽ぽいパートやニーノ・ロータ/フェリーニぽいブギウギがあったりと、場面がクルクル変わる映画音楽のよう。曲の節目で溜め息や掛け声が入るのも面白い。最後はクレーメルが“ソロ”で「フゥーッ!」。この晩に演奏された全曲を通じて、もっとも聴衆の拍手が大きかったのではないだろうか。録音がないのは非常に残念。


●ピアソラ:ブエノスアイレスの四季
ギドン・クレーメルの名を知ったのは1990年代後半。ピアソラのインタプリターとしてだった。ピアソラ自身の演奏だけでも聴ききれないくらいCDがあるのに、どうして他人の、しかもクラシック音楽家の演奏でピアソラを聴く必要があるだろう。というわけで、その頃は聴かずじまい。最近になってクレーメル率いるクレメラータ・ムジカの「新ウィーン楽派の室内楽作品集」というアルバムを見つけた。1曲めがマーラーの「ピアノ四重奏」。マーラー16歳の時の作品で、多くの習作やスケッチが廃棄された中で、断片が残っている珍しい例だという。これが素晴らしい。モノフォニックな旋律が繰り返され、だんだん形を変えていく様は、後のマーラーの音楽とつながっているような気がする。

さてピアソラ。今回クレーメルの演奏を聴いて(またはオーディエンスの反応を見て)、どうしてピアソラ以外の演奏でピアソラを聴く意味があるのか、わかった気はする。

「夏」は横揺れでピアソラの音楽という気がしない。つんのめりながら前に進んでいく推進力が足りない気がした。また、ヴァイオリンにフェルナンド・スアレス・パスのカミソリの切れ味がチラついて、大勢の合奏だとどうにも緩く聞こえてしまう。「秋」では上述のきれいなチェロのお姉さんがフィーチャーされる。ソロはわりに控えめな印象。コーダでバロック(ヴィヴァルディ?)が挿入される「冬」から最後の「春」あたりまで来て、ようやく弦楽アレンジもいいかなと思いはじめた。要するに、「ピアソラのタンゴ」と思わず聴けばよいのだ。

演奏が終わって初台の駅に歩く間、30代後半くらいのカップルの会話が聞こえた。旦那さんのほうが「あれが前半のままだったらねえ」。マーラーとショスタコーヴィチは退屈だったが、ピアソラはよかったということなのだろう。自分とまったく評価が反対で、面白いものだなと思った。


●アンコール
1曲目はモリコーネの作品?
2曲目はムーンライトセレナーデ。


●まとめ
何にしても、自分にとって最も大切な作曲家たちのうち3人、マーラー、ショスタコーヴィチ、ピアソラを同一プログラムで聴くことができたのがよかった。“選曲家”としてのクレーメルにサンクス。

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2007/06/20(Wed)
ライヴ - クラシック | trackback(0) | comment(0) |


低開発の記憶―メモリアス―@渋谷ユーロスペース

1968年製作のキューバ映画。エドムンド・デスノエス原作。監督は『苺とチョコレート』のトマス・グティエレス・アレア。資産家の中年男セルヒオの精神的没落と、彼の目を通して描かれる革命直後のハバナ(1961年4月のピッグス湾侵攻後から翌年10月のキューバ危機まで)。「革命」というと一夜にして黒だったものが白に変わったと考えてしまいがちだが、変化はしだいしだいに起きたのだということがわかる。

セルヒオは街で美少女エレナをナンパする。かつて妻を磨き上げたのと同じように彼女に教育(開発)しようと、美術展を見せたりヘミングウェイの家を訪ねたりする。やがて彼女が(キューバと似て)低開発であると知る。「エレナの気分は常に移り変わる」「情緒であれ知性であれ、ここではすべてが長続きしない」「この国は、緩過ぎるのだ」。セルヒオはエレナを無下に捨て、仕返しに強姦罪で告訴される。裁判で無罪放免にはなるが、「あまりに多くのものを見てしまった」ため解放感に浸ることができない。このエピソードには身に詰まされるものがあった。

「開発」を巡る政治討論会で、アメリカ人の若者が質問に立ち、「革命が本当にユニークなものだとしたら、なぜこうした討論をちっとも革命的でないアルカイックな方法でやっているんですか?」と皮肉るシーンがある。セルヒオの性的妄想シーンも含めて、こうした部分が検閲された感じはない。キューバはやはりソ連と違う。「開発」というイデオロギーは現在なお強固で、アメリカ資本に食い物にされているジャマイカの現状を描いた『Life & Debt ジャマイカ 楽園の真実』という作品があった。ジャマイカにはカストロのような指導者がいなかった。

心理描写やモノローグにヌーヴェルヴァーグ的な匂いが濃厚なのは、1968年という時代のせいか。プログラムの解説によれば、ルイス・ブニュエルの映画からの引用が多々あるそうだ。このような優れた作品が、それでも本国ではフィルムやネガが朽ちる寸前で、ようやくデジタル化されての日本初公開。DVD化の計画もあるそうなので、先日隣りのスクリーンで観た『コマンダンテ』とセットで手に入れたいものだ。

オフィシャルサイト
http://www.action-inc.co.jp/memorias/

2007/06/16(Sat)
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