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ピエール=ロラン・エマール レクチャー

2012年11月22日(木)19:00
ピエール=ロラン・エマール レクチャー
ドビュッシー《前奏曲集》をめぐって
(出演)ピエール=ロラン・エマール
(フランス語通訳)藤本優子
トッパンホール

※話を聞いたメモの書き起こしで、厳密でないところもあります。


ドビュッシーはストラヴィンスキーの陰に隠れて地味な印象があるかもしれませんが、音楽にさまざまな革新をもたらしました。彼は音楽のみならず詩、文学、絵画といった芸術から大きな影響を受けています。『音と香りは夕暮れの大気に漂う』という題名はボードレールの詩からとられた言葉です。『沈める寺』は伝説の町イスを表現したもの。ドビュッシーはポエジーや文学を独学し、象徴派の人々と交流がありました。絵画にも興味を持ち、日本の版画なども所有していました。『妖精たちはよい踊り子』はアーサー・ラッカムの絵からインスピレーションを受け、それを音楽に起こしたものです。色というもの、和声の色合いというものを表現しているのです。『枯葉』にもさまざまな色彩が感じられます。ドビュッシーは自然をとても愛しました。風に関わる2曲のうちの1曲、『野を渡る風』は元気で、かつ肌を撫でる官能性をも感じさせます。一方の『西風が見たもの』は嵐のような風です(それぞれの一節を弾く)。

ビジュアルなイメージで書かれた曲も多い。『ビーノの門』は絵葉書そのものを音にした曲です。ドビュッシーは一度もスペインに行ったことはないのですが、こうしたスペイン風の曲を書きました。ここに見られる乱暴さ、歯が軋むような厳しさは、ドビュッシーの自画像であるかもしれません。曲によっては音楽で人物模写を試みています。『ピックウィック卿をたたえて』はチャールズ・ディケンズの小説の登場人物です。それに対して『交代する3度』は抽象的な作品で、後に書かれたEtudesをアナウンスしているとも言われます。しかしそれだけであるかは怪しいと思います。このように人間的な部分を除いた演奏をすれば(作品の冒頭を抑揚をつけずにのっぺりと弾く)、確かにメカニカルな練習曲のように聞こえるかもしれません。当時、こうした傾向が芸術においても流行していました。産業革命の影響です。ラヴェルも機械を好んだと言われていますね。でもこの作品は、ストラヴィンスキー的なメカニカルと言えるでしょう(適当な強弱をつけて弾く)。ピアニッシモで囁くようにという指示があります。ピアニッシモで弾くとテクスチャーがドライになって、ほとんどリゲティ前派のようです。

メロディのアイデアをどう活かすかという点もドビュッシー作品の特徴です。ドビュッシーは、キャリアの初めではフランスオペラの伝統に沿った、メリスマを持った作曲家でしたし、歌曲集をものにした作曲家でもあります。『霧』でもメロディの要素があります。ここ(弾く)も『牧神の午後の前奏曲』の冒頭のフルート1本の一節を思い出します。『カノープ』ではリボンのような和声が見られます(弾く)。『デルフィの舞姫たち』では和声とメロディが織り交ぜられ、初めはメロディが見えません(弾く)。メロディと和声の垣根を壊したい、境をなくしたいという意図が感じられます。『枯葉』の出だしは属9の和音ですが(弾く)、属9をてっぺんに置くのではなく、一番下に置く。バスにあるべき音が一番上に来る。まさにドビュッシーにふさわしい奇抜な和音です。そして和音は解決しないでサスペンション、一番下に行くだけのまま置かれます。解決せず滑らせる和声進行(弾く)。色を帯びた和音そのものになるのです。「ミ」が繰り返されますが(弾く)、メロディさえありません。1回ごとに違う響き、色を乗せます。違う音の高さ、違う音域を使います。新しい旋法の使い方があります。『カノープ』の中ではモードがあります。第2集2曲めの『帆』は旋法のみで書かれています。フルートのイメージ、心臓の鼓動を感じます(弾く)。半音階のグループに加え、全音階で不安の音を乗せていく。対位法が出てきます(弾く)。突風が吹き、色を変えます。この曲ではペンタトニック、東洋風の音階も聞かれます。

音色の工夫もドビュッシーならではです。ピアノのために書かれた曲なのに、「この楽器のように」という指示があります。ギター、トランペット。『音と香りは夕暮れの大気に漂う』では最後のほうで4本のホルンが聞こえます。楽器を聞かせる天才性、空間の感じさせ方は『月の光の降り注ぐテラスで』で顕著です。ここはホルン(弾く)、そしてその後にハープとチェレスタ、その後にホルンが近くで鳴り、鐘が一つ最後で聞こえます(弾く)。ドビュッシーは音色とその組み合わせに挑戦しました。明日演奏するアイヴスも空間を感じさせるパイオニアでした。

『霧』は、第1巻で成し遂げたことのつながりで第2巻を書いたことを感じさせます。はじめのメロディを低いところと高いところで弾いて、その間を次第に補っていく(弾く)。『月の降り注ぐテラス』の神秘のコラールでは(弾く)、官能性も加わります。最初に上と下で空虚さを感じさせ、その後の豊かな和音で満たすのです。

そして最後の『花火』に至るまで、ドビュッシーは響きの実験をやっていました。遠くのざわめきのようなものまで細かな動きを狭い音域に閉じ込めます。おそらく7月14日の革命記念日の花火大会に出かけて、その賑わい、人々の雑踏を表現したのだと思います。これがさまざまな表現に変化します。予想ができません。ロマン派の音楽は次が予想しやすいのですが、花火大会で次に何が出てくるかわからない楽しさを表現しています。横に広がる空間だけでなく、空間の深みにまでつながっていく。野外でのイベントですから、さまざまなことが起こります。遠くでだけでなく、近くでもうるさいことが起こる。ドビュッシーは4つの音の厚みを使い分け、距離感を表現しています。ロケット花火のようなファンファーレ。最後では何もかも掻き消え、うんと遠くでファンファーレが鳴ります。最後でユーモアたっぷりにラ・マルセイエーズを登場させています。

その他にも、さまざまな引用があります。ドビュッシーはほかの作曲家の作品を借り物として引用することが多い。アイヴスも国歌やポピュラー音楽からの引用が多く共通点があります。引用をどう聞かせるかという点で、さまざまな解釈があり得ると思います。『ピックウィック卿をたたえて』では、あえて仰々しくイギリス国歌を聞かせています。『途絶えたセレナード』の中央部では、窓を開けて聞かせるような、自身の曲『イベリア』の引用があります。『交代する3度』では『春の祭典』の引用があります。耳をつんざくようなホルンの引用です。しかしこれはアンチ春の祭典とでも言いましょうか。『妖精たちはよい踊り子』では、あまりわからないやり方で聞かせる引用があります。3つの音です(弾く)。真夏の夜の夢の、ウェーバーのオベロンの、ホルンの響きです。ウェーバーの曲を聴くと、どれだけドビュッシーが彼の音楽を使ったか、引用と言うより借用したかがわかりますよ。『霧』の左手はペトルーシュカにほかなりません。トランペットもペトルーシュカのものです。しかし右手がヴェールのようにペトルーシュカのテーマを隠しています(弾く)。わかったかなと思ったら、隠して遊ぶのです。最後に霧が掻き消え、ペトルーシュカの和音が現れます。

ドビュッシーは、ストラヴィンスキーやピカソのように、オブジェを切り取って音楽を作りました。ケークウォークのリズムを取り入れた2曲。当時のフランスにいた黒人たちの音楽を面白がる雇い主たちもいて、それを面白いと言い始めました。ドビュッシーはハサミを使ってサプライズを作り上げています。ストラヴィンスキーは数年後にラグミュージックを始めますが、ドビュッシーは別のやり方でハサミを用いて音楽を作っています。

『途絶えたセレナード』は、「曲を始めますよ」というのをいつまでもやっている。曲が始まったと思ったのに始まらない(弾く)。最後に歌がすがるように登場します。セレナードを奏でていたジェントルマンを前にご婦人が窓をバタッと閉める、セレナードが途切れてしまうような感じがあります。『音と香りは夕暮れの大気に漂う』には、詩作でいうパントゥーン(韻)があります。出発点の音が最後にもある。メビウスの輪のように繰り返されます。繰り返し繰り返し、元に戻るのです。これは、音と香りが空間に漂っていることにほかなりません。ホルン、ハープが最初のアイデアに戻る。次にホルンが変化し、決まりきったやり方をなくして、新しい連なりを生み出しているのです。『花火』にはさらに新しいアイデアがあります。あるテーマを提示して、再現して終わるというやり方を排しています。比較する対象としてはシェーンベルクくらいでしょう。

この前奏曲集をアンサンブル/全体として見た場合、滑らせていく、ずらして表現するのがうまいと思います。曲から曲へ。『霧』の最後でペトルーシュカのファンファーレが消えていくところなどですね(ソとファの平行和声)。『枯葉』の出だしがどうかというと、これはやはり平行する2つの和音。『ピックウィック卿をたたえて』から『カノープ』へつながるところも面白い。精緻なつながりです(弾く)。ディケンズの登場人物を嘲るような終わり方から、古代エジプトへの詩情の台頭。旋法的なつながり以外にもパラレルな、完璧な和声でつなぐ。嘲るような和音が『カノープ』の冒頭に似ています。『交代する3度』の終わり方も、3度がサスペンション、宙づりのまま終わります。『花火』の終わりもファ・ソ・ラの3度の中に収まる。全音階の3つの音です。『雪の上の足跡』のオスティナート的なモチーフが痛みを感じさせます。『ミンストレル』の3つの音を際立たせる、3つの音が一貫して見られます。

メロディ、ハーモニーを扱う繊細な手つき、センスがこの曲集を貫いています。24曲の並べ方、細かな感受性、和声などから、これがドビュッシーにとって壮大なプロジェクトだったことがわかります。12曲めと24曲めがファ・ソ・ラでつながっていること。また、第1巻と第2巻の7曲め、『西風が見たもの』と『月の降り注ぐテラス』が空間の広がりを感じさせるというのも共通点の一つです。第2巻は第1巻のやり方を再現しているだけ、つまり繰り返しではないかという批判もあります。しかし、意図的に対にしている曲がある。スペイン風の曲が対。色でのコントラストですね。ケークウォークのリズムも2曲。初めはアイロニック、2つめは控えめなユーモアを表現、パーソナルな表現、内面をさらすような表現です。

ドビュッシーはマスクを被ってする遊びを好んだ人です。自分の自画像をこの24曲で試みたとも言えるのではないでしょうか。何かを暗示するようなタイトル、問いかけのニュアンスもドビュッシーらしいと思うのです。各曲にそえられたタイトルも、譜面の最後に「...」付きで暗示された、とらえどころのないものです。『霧』ではブルイエ(ぼやかす)、左手でやっていることを右手でぼやかしています。『帆』はコルトーが解釈したように、船の帆を表しているとも言われますが、今はYouTubeなどインターネットですべて見られるのですね、踊り手のヴェールを表したとも言われます。『枯葉』とは一体どういう意味なのでしょう。単なる秋の情景なのでしょうか。日本語でも一葉の紙と言われるように、過去に作曲した失われた曲のことを表しているのかもしれません。ゲームのように隠して遊んでいる。おのれをさらけ出さない。多面的なものごとに興味を持ったドビュッシー自身の作品を解き明かす鍵は「神秘」なのです。

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2012/11/25(Sun)
ライヴ - クラシック | trackback(0) | comment(0) |


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